原発避難54 ~半年 ― 2011/09/11 08:00
そしてそれは3月初めから家に戻らないでいた愛猫らくらくが帰らぬ姿で見つかった日、その日から自分の中で悲しみの時間の針が動き始めました。
らくらくがなぜこんなことになったのか、救えなかったのか自問自答を繰り返して数時間、梅の花の下で手を合わせていたその時、大地が砕けんばかりに身体を激しく震わせたんです。怒るように。
余震に怯えて夜はビニールハウスで寝ようとしていたら、原発が怪しいので屋内待機せよとの指示が出ました。さらに翌早朝隣村への避難指示が出ました。愛猫のびのびは残されました。ちょっとの別れだと思って・・・。
町民の誰もが2,3日で帰してもらえるものとばかり思っていました。
そして翌日から我々は避難住民と呼称され避難生活の始まりです。間もなく原発が爆発し事態は深刻に、それは今日半年という長い日数を数えるまでに至りました。持病をかかえる高齢の父母と心臓手術から退院したばかりの家族がいて避難生活の困難が予想されました。さらに私は今後の不安とらくらくを失った悲しみ、連れて来れなかったのびのび・・・・後悔と焦りが頭の中に渦巻いていました。
家族離散、劣悪な避難所生活、サバイバル、別の避難所の移動、県外への避難、のびのびの救出、一時帰宅・・・・・・・・・・・・・・・・
いろいろありましたが今神奈川で私たちは幸いにも家族、愛猫ともども元気な避難生活を送ることができています。
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あのとき、
郡山の避難所にいたとき、沢山のボランティア支援をいただきました。ありがとうございました。明日を生きる希望の光でした。
何日か経ってから携帯を買い替え、ネットでツイッターを見ることができるようになりました。震災直後から多くの心配の声が寄せてられていることがわかりました。
ひとつずつ避難所の消灯後の暗闇の中で目を曇らせながら読まさせていただきました。勇気と元気をいただき本当にありがとうございました。
半年たってもう一度お礼を言いたいです。ありがとうございます。
その後もブログを読んでいただいたり、コメントをいただいたり、呟きでたくさんの励ましをいただいたり、そして楽しいことを教えていただいたりしています。福島浜通りにいたときと同じように会話を楽しみ、心の絆を結んでいただいていることに感謝しています。
もちろん心の義援金を寄せていただいた方々、震災直後から支援、声援を送っていただいている親戚の方々や友人にも心からお礼申し上げます。
今、原発事故収束の進捗と放射能汚染の状況から福島浜通りでの元の日常に戻ることはそう簡単に行かない雰囲気が漂い始めています。というか漂わされています。憎い演出です。
しかし決してそのことを諦めたりはしません。心の根っこが死ぬまでずっとそこにあるからです。
愛猫らくらくとのびのび、朝顔「希望の光」も応援してくれていますし、しばらくはこのままがんばります。
これからもどうぞよろしくお願いいたします。
























































原発避難指示184日目の朝、晴れています。
朝顔「希望の光」今朝も咲いてくれました。バイオレット13。
これまでバイオレット875、ブルースカイ3、合計878を数えました。
(追伸)
(記者煽るように)大臣なんでまだ作業服なんですか?放射能付いてるんじゃないですかぁ。
(大臣言われたことにむっときて)ほら放射能くっつけるぞ!
単なる邪推だが・・・誰かが仕掛けた罠なのか、マスコミ界に新しい内閣から最低2人は辞任させる、今回はおたくの社なんてことがあるのだろうか。
その目に原発警戒区域が「死の町」と映り、危機感を持って的確に現場の状況を国民に伝えてくれた大臣には記者に対して、「てめえこの千年に一度の国難のときにこんなじゃれごとやって遊んでる場合じゃない。わが国がどんな事態かわかってんのか、被災地がどんなになってんのか、被災者がどんな思いで家を離れているのか、自分できちんと警戒区域内に行って取材して国民に伝えろ!」って言ってほしかった。お疲れ様でした。日本が脱原発に向かって歩き始めた最中とても残念です。
いいかげん大震災ねたを使って永田村での政治ごっこをするのは止めにして、
早く原発事故を収束させ我々を故郷福島浜通りに帰してください!
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