原発避難87 ~警戒区域のヤマメ、イワナたち2012/04/18 13:47

自分の心の中では日本の田舎100選に推薦したくなるくらいの海、川、野山の自然が豊かでのんびりした故郷福島県浜通り中部。あの場所で生まれ、育ち、高校時代までを過ごした。社会人になってからも年に数回帰省して自然を楽しんでいた。特にフライフィッシングを覚えてからは近くの美しい渓流に立つことで東京生活のストレスから開放してもらっていた。とても癒された。

自分が高校生になった頃、静かで平和に満ち溢れた緑豊かな田園地帯に、ある日多くの住民の反対を押し切り東京から東電の原発がドヤ!!顔でやって来て居座った。福島第一原発に6基、そして我が家の目と鼻の先の海岸に福島第二原発の4基・・瞬く間にエイリアンの怪物の子供達のように増殖した。そしてあらゆる場面で東電・原発に反対する者など住民に非ずといったカルチャーを作った。

原発は大地を切り刻んで福島の美しい海岸線を奪った。250キロ先の東京に続く高圧の送電線が山並みに邪魔臭く、電波障害をもたらした。原発は何度も人為的な事故を繰り返した。東電はそれを隠し続けた。

我々は東電の原発を周辺に馴染まない特別なもの、それもいつ爆発して放射能をばら撒くかわからない、どでかい怪物としか考えていなかった。なんかあったらどう逃げりゃいいんだろう。瞬時に放射能浴びちゃうのかな・・・。

日本の、世界の各地でいろんな自然災害のニュースを見ながら「ここはいいな。大きな災害に見舞われなくて。・・・んだげんちょもあれがあるからな。いつ爆発すっかわがんねがらな。」ってお茶を飲みながら視線を目の前の原発に向けて話していた。

2,3年前から家がぐらっとする震度4くらいの地震が頻発するようになった。その度に目を原発に向ける。家の土台を改修して少し安心していたのだが・・・
恐れていたことがやって来た。

愛猫らくらくを庭に埋めて悲しんでいた2011年3月11日午後2時46分、踏ん張って立っていることもできないような大きな揺れがさらに強さを増しながら我々を襲った。地面にひれ伏して木の幹につかまって飛ばされないようにした。ロデオの暴れ馬にまたがったように体が揺さぶられた。ゴーゴー!!大地が鳴き、長くいつまでも暴れることをやめない。

がらがらがら!と屋根瓦が崩れ落ちた。大きな石灯籠がゆっくり倒れて来た。人間が作った家や建物が粉みじんに壊れるかと思った。目の前の原発もやべーだろ! 原発からもガラーガラガラ!!と大きな音が聞こえてきた(巨大クレーンが倒壊した。)。きなくさい臭いが風に乗ってやって来た。

外のビニールハウスで一晩過ごそうと眠りに着いたら屋内待機指示が出た。そのとき近くの津波の被害はまったくわからなかった。もちろん原発の被害も。翌朝早く10キロ圏外への避難指示が出た。ほんの数日だろうと思って愛猫のびのびを置いて家を出た。

そして心配していた通りその時が本当に来てしまった。原発の爆発。人間の手に負えず4基連続暴れ狂った。そして20キロ圏外への避難指示、迫りくる原発の放射能に追われながら散り散りばらばらに住民は自分の力で逃げた。逃げ惑った。

着の身着のままで逃げてきて劣悪な環境の避難所で住民は耐えた。全国からの、全世界からの支援に感謝しながら今日生きることだけを考えていた。残念ながらこのパニック体験、避難所生活は高齢者にハイインパクトを与え、ご近所さんたちも大切な命をたくさん失うことになってしまった。我が家でも2人が心臓循環系の緊急手術を受けた。一人は第一級身体障害者になった。

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福島県浜通り中部の福島第一原子力発電所から20キロ圏内は警戒区域に指定された。我が家へも故郷のどの場所へも自由な立ち入りを許されなくなった。

放射能は我々の町を死の町にしただけではない。高濃度の放射性物質を山野、海に降り積もらせた。動物、植物たちにどんなインパクトを与えたんだろう。
あの渓で魚達は元気にしているだろうか。

もうあのいつもの川で大好きな釣りを楽しむことはできない。
いつか竿を振ることができる日が来るのだろうか。未来はまったくわからない。というか想像をしたくない。

せめてもの慰めで思い出に残る川を辿るしかない。


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2001年















2002年

































つづく。