原発避難94 ~情けない・・・あの日リプライズ2012/05/30 13:01

昨日国会事故調で佐藤雄平福島県知事が委員の質問にしどろもどろで答えていた。

自分のリーダーシップのなさ、県ができなかったことを素直に認めた上で、原発事故の徹底究明を求め、我々被害者の怒り、悲しみ、避難生活の苦しみ、十分な賠償の実行、そして福島でなお生きている原発の即廃炉の実行を東電に、国に毅然と強力にアピールすべきだった。

まったく情けない。恥ずかしい。


知事はあの日あのとき我々が原発から逃げ惑っているときに何をしてくれたんだろうか。何に腐心したんだろうか。
県が楽観的に原発を推進していたとしても、せめて万が一のときの住民の安全確保について具体的に考え準備しておいて欲しかった。何の策も用意していなかった。ただただ東電、原発村の作った安全神話を鵜呑みにしているだけだった。交付金だけ確保してやはり町任せ、国任せだった。とどのつまりは住民任せ。住民に東電と事故に対峙させることになった。

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あの日避難しろと告げられた朝原発がどうなってるのか何も教えられなかった。町の所定の場所への避難がいつの間にか隣村への避難になっていた。数珠繋ぎの車列は動かなかった。バタバタ上空を自衛隊の大型ヘリが福1方面に飛ぶ。反対車線を自衛隊の大型車両が走り、皆頑丈な防護マスクを着けていた。

午後をかなり回ってから隣村の避難所周辺に到着。スカスカのタンクに千円分の給油を許された。その日は寝場所、赤十字印毛布、ダンボール、僅かなおにぎりの確保で終わってしまった。福1の原発で何が起こっているのか、我々がなぜここにいなければならないかを知ったのは翌朝小学校のテレビだった。

福1から10キロ圏外への脱出をしていること、20キロ圏外への脱出の必要性の有無が取り沙汰されていることを報道で知った。もう家を捨て避難所を捨てて逃げ続けなければならないのか、どこへ行くべきなのか皆個人の判断を迫られていた。町長は20キロの外、これ以上逃げなくて大丈夫と言っていた。

何やってるんだ早く海水を入れろ!そんなことしたら原発使えなぐなっぺ!テレビで原発建屋が次々に爆発、煙を上げている姿を小学校の廊下で固唾を呑んで見ていた。2,3日の避難で終わると思っていた我々の心臓は凍りついた。もう何十年も帰らんにがもしんにな・・・。置き去りの愛猫のびのびが心配!

次の行動をどうしたらいいか不安を持つ住民が町長にこのままここにいて大丈夫なのか、放射線量はどうなのか、線量計を設置しないのか、燃料の手配は無いのか、バスの手配はあるのか・・・矢継ぎ早に質問した。町長はここにいれば大丈夫、とにかく私を信じて下さいと言うだけだった。

最初の避難所から住民の姿が少しずつ消えていった。町や県の明確な指示がなく自分で覚悟を決めて遠くへ移動し始めた。我々家族はどうすべきか話し合った。一番確かな情報を持ってる町についているのが一番だという結論になった。でも家族が病院へ行かなければならなくなった。動いた。離散が始まった。

町の担当者は我々の指示に従って欲しいが、個人の自由な判断は止めない。自分の責任で避難してくださいと言っていた。それにしても肝心の道路情報やどっち方面に逃げれば安全なのかはまったく教えられなかった。着の身着のまま避難して来て数日枕を並べた住民が気づいたときにはいなくなっていて、どこへ逃げて行ったのかまったくわからなかった。町民が散り散りばらばらになり始めた。避難所の秩序はなくなった。

ちょうどその頃ついに町から指示が出そうだった。「次の避難先は郡山のビッグパレット」っていう情報が小耳に入った。「よし行くぞ!」声がかかった。家族と離れ離れになった私は従兄弟の車で郡山に向かった。正式に指示が出る前、大勢の住民が行動を起こし再び渋滞に巻き込まれるのを避けるためだった。雪道、道路の崩壊大丈夫だろうか。従兄弟の長年の土地勘と伝聞の情報が頼りだった。避難5日目の朝だった。

途中吹雪に見舞われたがお昼頃無事郡山のビッグパレットに到着した。駐車場が沢山の車で埋まり始めた。車内で、何時間か待った後館内に入る前にスクリーニング(全身の放射線量チェック)が行われた。寒風吹きすさぶ中避難住民の長蛇の列ができた。老若男女、病人、障害者の区別も無い。長時間の待機は皆疲れた心と体にこたえた。

スクリーニングが終わると館内は寝る場所の争奪戦状態になった。避難住民はお隣の村などが合わさり2000人の大所帯になった。寒い、コンクリートに何枚かの毛布、ノープライバシー、開いてる場所ならトイレの前でも寝る、ありがたいが生きるためだけの食事、騒音、風邪、下痢、頻繁な救急車・・・何日も何日も続いた。最初の避難所よりも環境はひどい状態になった。巡回してくる町村長、看護師、マスコミに訴えた。「お年寄りがまいってます。県に、国に改善するように伝えてください!」

2週間くらい経ってから、抽選で近隣の宿泊施設への移動が始まった。でもわずかだ。仮設住宅を設ける予定さえ立っていない。また少しずつ自分の判断で兄妹、親戚、友人などを頼って第三の避難が始まった。全国へ散って行った。私の両親はいわきの親戚の家にお世話になっていた。

避難ひと月になる頃、原発20キロ圏内を立ち入り禁止にするという報道が流れ始めた。愛猫のびのびを救出に行くことに決めた。最初で最後のチャンス。のびのびは生きているだろうか・・・。実質的に立ち入り制限が始まっていた故郷、どこをどう行けば町に帰れる・・・得ていた情報を頼りに従兄弟と車で故郷に向かった。

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こういう非常時にどこがどんなことをすべきだったんだろうか。
町が、県が、国が手を打ったことはなんだったんだろうか。

住民はそれぞれの決断を強いられた。それぞれの道を選んで避難して来た。
それが最善かどうかはわからないが。


開けない夜はないと言うけれど、今まったく夜が明けた様子は無い。
皆光が見えない。
皆深刻に考えたら終わりだと思っている。
忘れたい。あったことを信じたくない。
でも時々苦しいが深刻に考えざるを得ない。


コメント

_ あこ ― 2012/05/30 16:02

雄平さん、危険なプルサーマルを導入した張本人なのに、すっかり被害者顔ですよ。
当時の記事は紙面の片隅に少し。大変なことを県民に気づかれないようにそうしてるような感じ。あまりの目立たなさに驚きました。
新聞も操作されてるんですかね・・。今だって、復興ムードの明るい話題は積極的に載せられてますが・・・。もっとはっきりと知りたい情報も提供して欲しいですよね。
そうしないと、浪江のおじさんのような自殺者がまた出そうです。

_ hamanobi ― 2012/05/30 19:17

> あこ さん

遠藤町長がリーダーを務める原発立地市町村会でもこともなげにプルサーマル実施が決まった。もちろん国、県の強い後押しがあったんでしょうけど。不安な住民を無視して行政はみんないけいけでしたよね。
原発に耐用年数が来ているのにさらに何十年も使おうとした。ほんとに大丈夫なの?て思っていたら直ぐこんなになっちゃった。
東電や国の施策受け入れありきで端から住民の安全なんて考えてないから質問にまっすぐ向き合って答えられるはずないですよね。
避難所にいるときも思っていましたが、どっち向いて知事や県は仕事してるんだと言いたいです。今は自分の保身だけでしょうけど・・・。ひど過ぎる。

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