原発避難138~避難3年目の一時帰宅(3)2013/06/14 14:38

避難三年目の一時帰宅は3時間ほどで終わりました。ネズミの糞の処理とお墓参りに割いた時間がほとんどでした。

次は8月のお盆のときにまた来よう・・・って家族皆がそんな気持ちになっていました。

町を去る最後に2011年3月11日に震災に遭った沿岸部を確認していくことになりました。自分の目でちゃんと見ていなかったからです。


動画
http://www.youtube.com/watch?v=dlSrIuCfZkI


海岸部にあった住宅は津波に流されて、津波は常磐線の駅舎や付近の商店街も襲い町の中心部に迫りました。その後の余震で家が崩落している状態です。

町の中ではところどころ除染らしきものが行われていたり、除染のための事前調査が行われていました。

町の中を警察のパトカーが巡回して防犯者の警戒にあたっていました。
人ひとり歩いていない商店街は文字通り死の町です。
この地区は現在線量が高く居住制限区域になっています。線量が下がらなければ帰還することはできません。子供は一時帰宅もできませんから帰還を希望する人はほとんどいないのではないでしょうか。廃墟?という言葉が頭の中を過ぎりました。

町の北部に車を走らせました。国道6号線はここで通行許可証がないと進むことができません。ここから先は帰還困難区域。残酷な言葉です。
バリケードが施されていてその向こう側は福島第一原発事故でもっとも線量が高いコアな地区です。隣町の第一原発までは5キロくらい。

町の北部の住宅街や商店街は道路を隔てて帰還困難区域と居住制限区域に分けられています。家の入り口のひとつ一つ、道路の一本一本にバリケードやガードレールが設置されています。

まるで国境のようです。住民の方や作業者が事前に進入許可をもらっていなければ入ることはできません。


我々はあの震災の翌日の避難のときのように西へ会津に向かいました。

大地震と大津波に襲われた翌日の原発避難指示を受けてこの道路を隣の村に向かいました。村の中心部まで30分ほどで行ける距離ですが渋滞で6時間以上かかりました。この道路の左車線は車の列で埋め尽くされました。

念のための数日の避難、皆そう思っていました。まさかあんな運命を変える事故が起こるなんて、いや起きてたなんて!!誰も知らされていませんでした。

あの日この道路の右側の車線を防塵マスクを着けた自衛隊が町の中に車を進行して来ていて、上空にも大型ヘリが爆音を響かせて福島第一原発の方向に飛んで行きました。悲劇はもう始まっていたのです。

隣村から西の地区ではもう本格的に除染が始まっています。

除染の効果はどんなものなのか。わが町と比べて線量の低めの地区でもこんな状況です。


わが町の除染が始まったらどうなるんだろう・・・
想像するだけでうちの家族みたいにもう笑うしかないのかも知れません。
テレビのサスペンスドラマで、「お前はもう殺されるんだ」て言われて、理解できずに笑ってしまうように。

原発事故でハイインパクトで被害を受けた町に人が明るく暮らせる未来はない・・・放射能と戦う時間だけが過ぎるそういう未来は来るだろうけど・・・残念だけど。



続きます。



梅雨の月2013/06/14 20:06

ここ3日間梅雨らしい雨模様。
台風が関東に接近してたんだけど熱帯低気圧に変って、
今日も朝からしっかり雨。
昼前に雨が上がった感じだけど時々猛暑に店先などで活躍するミストシャワーのような霧雨が降ったりして・・。午後になって雨は上がったものの空は雲だらけ。少し蒸し暑い感じになりました。
そして夜、夕食後外に出て空を見上げたら月が出てました。
月齢カレンダーで確認したら5日目の月。
梅雨の合間の月はなんとも言えず綺麗だ。




満月は23日(日曜日)。

原発避難139~避難3年目の一時帰宅(4)2013/06/14 20:24

一時帰宅で家を後にして会津に向かいました。
隣町から会津に避難している伯母に震災後初めて会うためです。

動画
http://www.youtube.com/watch?edit=vd&v=r7dK_0LKPo8


福島を太平洋沿岸の浜通り中部の×印から会津へ横断。


原発事故で浜通り中部の町村から福島の中通りや会津、いわき、そして東北へ、関東へ、全国へと散り散りばらばらになって避難して行きました。
避難生活で寿命を縮め亡くなって、親しい人と再会できず二度と故郷の土を踏めなかった方が多くいます。

磐越道を走って西へ。磐梯山。

会津若松で下りました。


我々はいつも伯母の精神状態や体のことをとても心配していました。
伯母達は借り上げ住宅に住んでいました。
会ってみたら想像以上に元気そうでひと安心しました。毎日健康づくりに努めているそうです。皆失望してもくじけても頑張っている。

会津の田園風景素晴しい!


宿に一泊し翌日中通りの郡山に移動。

この街は、町民の多くの人が原発避難数日後、原発が爆発してからさらに遠くへ避難を余儀なくされ、ほとんど自力で移動、雨露を凌ぎ長い期間コンクリートの床の上に寝て飢えと寒さに耐えた場所。

大きな避難所だったビッグパレットふくしまがあるところ。わが町の役場も臨時事務所を設けています。
ここの仮設住宅に住む従兄弟を訪ねました。


家に帰還できない方や子供を持つ方は新たな決断を余儀なくされています。
帰還を断念して、故郷を諦めて新たな家の確保や安全な場所への移住。東電の賠償は不誠実極まりない憤りを通り越した額、政府のやっていることは遅すぎて明日に希望が持てるものはないから皆自分でやっているのです。


最後に郡山にある展示会場ビッグパレットふくしまを見ておきました。
私もこのビッグパレットでひと月過ごしました。希望がなく不安だらけの光明を待つだけしかない日々。

震災当時だいぶダメージを受けていましたが今は立派に修復されていました。


こうして避難3年目の一時帰宅は終わりました。

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あれから2年3月。まだなのか、もうなのか。
未来の時間はどうなるのか。大切な時間。

昨年3月避難している神奈川の病院で心臓の緊急手術を受けた父が、先日定期検査で、主治医に「いつ帰れるんですか? 4年後!・・・お父さんは89ですね。・・・がんばりましょう。」て言われました。

90近い年齢で福島に帰ることになるのか・・・しかも早くてだ・・・生きて帰れるのか・・・私はそう思いました。妙な沈黙があって主治医をはじめ看護師、我々家族居合わせた人は皆そう思ったはずです。










Where have all the flowers gone?
花はどこへ行った?という歌が頭の中を回り始めた。

故郷の、あの町の人々はどこへ行った?