原発避難139~避難3年目の一時帰宅(4)2013/06/14 20:24

一時帰宅で家を後にして会津に向かいました。
隣町から会津に避難している伯母に震災後初めて会うためです。

動画
http://www.youtube.com/watch?edit=vd&v=r7dK_0LKPo8


福島を太平洋沿岸の浜通り中部の×印から会津へ横断。


原発事故で浜通り中部の町村から福島の中通りや会津、いわき、そして東北へ、関東へ、全国へと散り散りばらばらになって避難して行きました。
避難生活で寿命を縮め亡くなって、親しい人と再会できず二度と故郷の土を踏めなかった方が多くいます。

磐越道を走って西へ。磐梯山。

会津若松で下りました。


我々はいつも伯母の精神状態や体のことをとても心配していました。
伯母達は借り上げ住宅に住んでいました。
会ってみたら想像以上に元気そうでひと安心しました。毎日健康づくりに努めているそうです。皆失望してもくじけても頑張っている。

会津の田園風景素晴しい!


宿に一泊し翌日中通りの郡山に移動。

この街は、町民の多くの人が原発避難数日後、原発が爆発してからさらに遠くへ避難を余儀なくされ、ほとんど自力で移動、雨露を凌ぎ長い期間コンクリートの床の上に寝て飢えと寒さに耐えた場所。

大きな避難所だったビッグパレットふくしまがあるところ。わが町の役場も臨時事務所を設けています。
ここの仮設住宅に住む従兄弟を訪ねました。


家に帰還できない方や子供を持つ方は新たな決断を余儀なくされています。
帰還を断念して、故郷を諦めて新たな家の確保や安全な場所への移住。東電の賠償は不誠実極まりない憤りを通り越した額、政府のやっていることは遅すぎて明日に希望が持てるものはないから皆自分でやっているのです。


最後に郡山にある展示会場ビッグパレットふくしまを見ておきました。
私もこのビッグパレットでひと月過ごしました。希望がなく不安だらけの光明を待つだけしかない日々。

震災当時だいぶダメージを受けていましたが今は立派に修復されていました。


こうして避難3年目の一時帰宅は終わりました。

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あれから2年3月。まだなのか、もうなのか。
未来の時間はどうなるのか。大切な時間。

昨年3月避難している神奈川の病院で心臓の緊急手術を受けた父が、先日定期検査で、主治医に「いつ帰れるんですか? 4年後!・・・お父さんは89ですね。・・・がんばりましょう。」て言われました。

90近い年齢で福島に帰ることになるのか・・・しかも早くてだ・・・生きて帰れるのか・・・私はそう思いました。妙な沈黙があって主治医をはじめ看護師、我々家族居合わせた人は皆そう思ったはずです。










Where have all the flowers gone?
花はどこへ行った?という歌が頭の中を回り始めた。

故郷の、あの町の人々はどこへ行った?


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