原発避難137~避難3年目の一時帰宅(2)2013/06/13 08:38

今年6月の一時帰宅も時間が迫って来ました。一時帰宅は9時から3時までと限られてています。宿泊もできません。もちろん水や電気も使えません。
同じ日に避難している親戚を訪ねて会津への移動が予定されていたので午後1時過ぎには自宅を去らなければならなかったのです。

最後に家族でお墓参りをすることにしました。
私はいた頃に愛した庭やイワナくんの棲む池もしっかり見ておきたいと思いました。

動画
http://www.youtube.com/watch?v=ALAj-MtRpsA


カーテンを閉じると何も見えない私の部屋。

ビートルズのパネル。この本棚の本は地震でも落ちませんでした。

床に落ちたCDは前回に来たときに散乱していたのをまとめて床に置きました。

倒れた家具や飾り物はそのままです。
今回の持ち出して来れたのは昨年亡くなった釣友と楽しんだ東北釣行のDVDだけです。

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庭のコンクリートの隙間から草が伸び始めました。人がいた時にはこういうことはありませんでした。

自分が作っていた庭にはハマナスがすごくいい匂いを放ちながら咲いていました。実はこのハマナス買って来たのを植えたものなのか、野生のを挿し木をしたものなのか記憶が蘇りません。バラはとにかく驚異的に繁茂して元気でした。

買って地植えしていたばら。今頃咲いているでしょう。

福島では6月の中旬がバラの見頃となります。

人がいなくても可愛い花は咲いていました。

ケイヒルもありました。

クリスマスローズも育っていました。
あと4,5年は確実に帰還できません。除染の予定とかもあるし・・この庭はどうなってしまうんだろうか。

以前自分の部屋から一時帰宅のときに瀕死の熱帯観葉植物たちを直射日光を避けれそうな裏庭に避難させたけど・・植木鉢だけが転がってました。

何ヶ月もかけて父と作った風呂焚き用の薪。もう燃やすことはできません。苦労が水の泡です。

イワナくんが棲む池。大きな山桜の古木の根元から湧き水が出ています。じっと見ていたらイワナ君が現れました。挨拶しに来てくれたんだと思います。竹の葉や木の葉が池の中に溜まって水深が浅くなっています。イワナくんの棲める環境はどうなっていくんでしょうか。

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最後にお墓参りしました。お寺の境内の灯篭は倒れたままです。

山の斜面にある墓地。田んぼの向こうの山には東京電力福島第二原発があります。目と鼻の先。この原発が第一原発と同じ運命を辿っていたら我々は永久にこの地に帰還できなかったでしょう。もっともこの原発と我々の運命がこれからどうなるのかもわかりませんが・・・。
津波は近くを流れる川を河口から1・5から2キロほどあるこの周辺まで上がって来ました。沿岸部の集落は津波に呑まれてしまいましたがこの地区に被害はありませんでした。

強い余震が続いて墓石が倒れてしまっています。

火災の危険があるため線香は焚けません。
いつまでも我々を見守っていてくださいと手を合わせました。


つづきます。

ウクレレの神様オータサンのお寺ライブ♪2013/06/13 10:00

6月8日土曜日、川崎大師にお参りしました。

今回神奈川に避難して来たけど、以前に30年間も神奈川に住んでいたものの川崎大師を訪れるのは初めて。・・・なんか人が初詣とかで多く集まっているところっていうイメージがあったからなのかな(笑)

なぜ初めて来たかというとウクレレの神様オータサンのコンサートがあったからです。

ネットのつぶやきを見ていたら、川崎大師が「ハワイ文化講座とウクレレコンサート」を主催(無料 定員300名様)することを知り、即座に申し込みました。幸運にもチケットをゲットすることができました。

チケット。

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初めて降りた川崎大師の駅。

表参道。

いよいよ境内へ。


厄除けに焚く煙。

震災で亡くなられた方のご冥福、被災者・家族・友の健康を願いました。


コンサート会場。


オータサンのステージ。公演中の写真撮影や録画は禁じられていたためショットは公演後のこれだけ。オータサンの上着が椅子にかけられ、ウクレレとケースが置かれてあります。

公演

お寺だけあって会場には文化愛好の品の良さそうな方々が集まっていました。

最初にハワイ大学の本田先生(広島県出身)から日本人のハワイ移民の歴史を中心にハワイの文化の話がありました。江戸末期から明治初期、ハワイの王様が王国を守るため日本人を移民としてハワイ諸島(四国ほどの面積)に招いたこと、とても苦労し差別と闘いながら誇り高く生き抜いて来た移民の歴史や、ハワイでの日本の文化、お寺、バンドやウクレレの果たした役割とか、戦争で祖国日本と戦いながら戦後日本を救援したことなどを話してくださいました。非常に興味深くて本当に聴けてよかったです。

ウクレレプレーヤーのハーブ・オータJr.やジェイク・シマブクロは日系三世で、ジェイクは沖縄と福島県の移民の三世だという話も聞けました。不思議な縁。

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そしてウクレレの神様、日系二世のオータサンの登場。

私の席は前列中央2列目、オータサンの指使いが見れる左側45度の席に座れたので凄い間近。めったにない機会なので気づいたことをノートにメモを執ろうと思いました。

ロマンスグレーの髪に黒い柄のアロハシャツとズボン、黒い靴、黒いリストバンドの腕時計。
昨年3月に東京でライブを拝見したときに比べてややほっそりされた印象。

今年79歳のオータサンが「ハワイから参りました年寄りのオータです。よろしく。」と挨拶。まずハワイで生まれたウクレレの歴史を優しく日本語で説明。「フラの伴奏だったウクレレをソロでやって食べるのが大変だった。」ってしみじみと話したのが印象的。

コンサートが始まりました。
「温度で狂っちゃうのよね。」「今はナイロンだけど昔はナチュラルガットだったから湿気で切れて大変だった。」てチューナーを使って念入りに調弦。


まずウォームアップ的にハワイのリズムやタンゴのリズムの刻み方、神業の指のテクニックをまず披露。生爪で爪弾きます。会場の聴衆は左手と右手から繰り出されるその技法と美しい音にただただ驚きとため息ばかり。
そして演奏がスタート。

日本の歌。
・さくら さくら 
・荒城の月
・見上げてごらん夜の星を(涙がでそうなくらいぐっときました) 

ハワイの歌
・ヒイラヴェ(滝の名前 女性が滝の前で恋をする物語)  

「今回日本に来て3週間滞在。疲れちゃうのよね。演奏するんだからこんなこと言っちゃ行けない。」「日本に来ると皆大人しいので気を使います。何を弾いたらいいのかな・・?」

・Close To You(カーペンターズ)

「眠らないでね♪」

・Eight Days A week(ビートルズ)
・Imajine(ジョン・レノン)
 オータサンは足で床を踏み鳴らして音を刻む。

「クラシックはどうですか?」「ピアノは弾けますか?ピアノのラプソディ・イン・ブルー弾けますか?」
・Rhapsody In Blue(ジョージ・ガーシュイン)
 親指くねくね奏法(爪の表裏を使っているのか高速で下にピッキングしているのかわからない。)。体操のあん馬のような指使い(親指と人差し指?)のトレモロがすごい。

「僕は眠っていても弾けます。本当に眠ったら急に落ちます。」 (会場爆笑)
 ぼけ老人同士の会話の話を一席。ハワイの方から高度な笑いをいただきました。オータサンはジョーク好き。

会場内で子供が泣いてて「子供が来ているのね」
・七つの子(カラスの歌)

「皆で歌いますか?」
・上を向いて歩こう
 
  オータサンの伴奏で会場の皆と歌っちゃった♪ 一体感に温かく熱いものが。
  
 

「アメリカ人の年配の人が知っている曲です。」
・Star Dust

「どうもありがとうございました。」

もうこのまま終わりなの?そんな空気が会場内に。
お寺の住職が現れて公演を〆ようとしても拍手が鳴り止まない。
アンコール!アンコール!

オータサンが再登場。
「では皆が知っている星に願いを。」
・I Wish Upon A Star
で〆ました。

最後に小さな女の子から首にレイをかけてもらいました。

もう終わってしまったのか・・夢のような時間があっという間に過ぎ去りました。その場立ち去り難し・・ほのぼのとしていて実にアットホームなコンサートでした。あの年齢であの演奏凄いね!てオータサンを初めて体験した人も感動していました。

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これからサイン会を行いますってアナウンスが・・!!
やったー♪♪ サプライズ。

買ってもらったCDにサインをするオータサン。


記念にオータサンのCDを4枚買いました。もちろんサインも、握手もしていただきました。写真も一緒に撮ってもらいました。

本田先生がこの中のCDのエグゼクティブ プロデューサーになっていて驚き。

そして持っていったウクレレにもサインをしてもらっちゃった♪(右側のサイン。左側はオータさんと親交があり強く影響を受けている日本を代表するウクレレプレーヤーIWAOさんのサイン。)


ハワイの、日本の誇り、ハーブ・オータサン、いつまでもお元気で!

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午後3時から始まって公演が終わるともう夕方。


参道の店。だるまが沢山。


良き日の〆に表参道の蕎麦屋で鴨せいろと日本酒(黒龍)をいただきました。



ん・・ん、ウクレレ好きにとって最高の一日でした♪♪


原発避難138~避難3年目の一時帰宅(3)2013/06/14 14:38

避難三年目の一時帰宅は3時間ほどで終わりました。ネズミの糞の処理とお墓参りに割いた時間がほとんどでした。

次は8月のお盆のときにまた来よう・・・って家族皆がそんな気持ちになっていました。

町を去る最後に2011年3月11日に震災に遭った沿岸部を確認していくことになりました。自分の目でちゃんと見ていなかったからです。


動画
http://www.youtube.com/watch?v=dlSrIuCfZkI


海岸部にあった住宅は津波に流されて、津波は常磐線の駅舎や付近の商店街も襲い町の中心部に迫りました。その後の余震で家が崩落している状態です。

町の中ではところどころ除染らしきものが行われていたり、除染のための事前調査が行われていました。

町の中を警察のパトカーが巡回して防犯者の警戒にあたっていました。
人ひとり歩いていない商店街は文字通り死の町です。
この地区は現在線量が高く居住制限区域になっています。線量が下がらなければ帰還することはできません。子供は一時帰宅もできませんから帰還を希望する人はほとんどいないのではないでしょうか。廃墟?という言葉が頭の中を過ぎりました。

町の北部に車を走らせました。国道6号線はここで通行許可証がないと進むことができません。ここから先は帰還困難区域。残酷な言葉です。
バリケードが施されていてその向こう側は福島第一原発事故でもっとも線量が高いコアな地区です。隣町の第一原発までは5キロくらい。

町の北部の住宅街や商店街は道路を隔てて帰還困難区域と居住制限区域に分けられています。家の入り口のひとつ一つ、道路の一本一本にバリケードやガードレールが設置されています。

まるで国境のようです。住民の方や作業者が事前に進入許可をもらっていなければ入ることはできません。


我々はあの震災の翌日の避難のときのように西へ会津に向かいました。

大地震と大津波に襲われた翌日の原発避難指示を受けてこの道路を隣の村に向かいました。村の中心部まで30分ほどで行ける距離ですが渋滞で6時間以上かかりました。この道路の左車線は車の列で埋め尽くされました。

念のための数日の避難、皆そう思っていました。まさかあんな運命を変える事故が起こるなんて、いや起きてたなんて!!誰も知らされていませんでした。

あの日この道路の右側の車線を防塵マスクを着けた自衛隊が町の中に車を進行して来ていて、上空にも大型ヘリが爆音を響かせて福島第一原発の方向に飛んで行きました。悲劇はもう始まっていたのです。

隣村から西の地区ではもう本格的に除染が始まっています。

除染の効果はどんなものなのか。わが町と比べて線量の低めの地区でもこんな状況です。


わが町の除染が始まったらどうなるんだろう・・・
想像するだけでうちの家族みたいにもう笑うしかないのかも知れません。
テレビのサスペンスドラマで、「お前はもう殺されるんだ」て言われて、理解できずに笑ってしまうように。

原発事故でハイインパクトで被害を受けた町に人が明るく暮らせる未来はない・・・放射能と戦う時間だけが過ぎるそういう未来は来るだろうけど・・・残念だけど。



続きます。