原発避難 169 「帰還」2018/09/05 11:00


2018年7月18日に両親が、28日に自分が福島の浜通り中部の自宅へ戻り、原発事故避難からの帰還が完了しました。2011年3月11日の大震災の翌日の早朝に、どうせ2,3日の念のための一時避難だろうと愛猫のびのびを残したまま家を出て事態は現実になり、どんどん酷くなり、家からどんどん遠ざかり、数か所の避難先を変えて生活し7年4か月余りが経っていました。その間、最初の一か月に意を決して愛猫の救出劇がありました。家でずっと待って居てくれました。奇跡とも思える色んな幸運が重なって生きて来れました。
避難指示から6年、去年の4月に避難指示が解除されて帰還できることになっていましたが、現実に帰還するための家の準備や町のライフラインの整備状況をみたり、仮の住居となった横浜の生活や通院への区切りと引越し作業に時間がかかりました。もちろん線量が落ちたとはいえ放射線への不安はありましたし、環境が激変することへの心の準備が必要でした。
避難生活中に出会った人との別れもありますよね。住み慣れた街への別れもあります。この青空を見るのは今日が最後になるのかな・・・とか、これが最後の買い物か、何か買って置く物はなかったか・・・とか最後に食べておくべきものは何かとか・・・観光旅行をやめて直ぐ帰るというわけにはいかないのです。
病気を持つ高齢の人間の帰還も大変なのですが、愛猫のことが気がかりでした。全身麻酔で獣医の施術を受けていた持病がありがなら長い避難生活を乗り切ったものの福島の生活に馴染めるのか、獣医に同じような措置を受けることができるのかどうかがとても心配でした。そしてすっかり都会の猫になってしまって自然豊かな場所で行方不明になったらどうしようかと・・・。

先に帰還した両親は早速緊急病院の世話になりました(^^; 担当した医師から自分の居る横浜へ電話があり、横浜の病院での病状と措置について聞かれました。横浜で抑えられていた精神的な不安が帰還先で出てしまったのかもしれません。直ぐに対応してくれる病院があってよかったそう思いました。

愛猫は福島への移動中の車中でもずっとバスケットの中でわりと静かにしていました。福島から横浜へ来たときはずっと鳴いていて困ったんだけど。みんなの協力で落ち着けたんだね。

福島の自宅に到着してすぐ愛猫にリードを着けました。どこかへ走って行ってしまったら困りますから。バスケットの中から出された愛猫は周りの様子が一変しているのにびくびくでした。震災のあった年まで2年近く一緒にいた愛猫らあらに、帰ったよと挨拶しました。

帰還2日後とても暑い日に引っ越しの車が沢山の荷物を運んで来ました。この日から2週間ほど荷解きと部屋への移動と整理に忙殺されました。その間、人も猫も少しずつ平常を取り戻しました。

スーパーやホームセンター、ドラグストアと百均のあるショッピングモールで食料品や生活用品はほとんど手に入ります。診療所や緊急病院も町にあるので差し当たって困るようなことはありません。ないのは床屋かな。

ほとんど更地になったご近所さんは誰もいません。いるのは先住者のイノシシファミリーとハクビシンです。それと復興作業や除染作業などのために行き交う沢山の車です。
時々親戚の人や以前の家族の知人が訪ねてくれます。人が住んでいないから寂しくてしょうがないということはありません。

横浜の青い空へさよなら

住み慣れた街や散歩道にさよなら

両親の月いちの通院の帰りに食べた鴨南蛮は美味しかった。

ハン・ソロ 貰ったチケットで映画も観れました。久々のスターウォーズ結構面白かった。

最後に行った街は渋谷でした。欲しかった釣り道具はゲットできませんでした。

休憩したのはジャズ喫茶。

レコードを聴きながらバーボンを飲みました。

横浜でその綺麗さを知った夜に咲くカラスウリの花

横浜で見る満月・・・福島でも同じように見れるんでしょうけど。

ひとつの部屋に枕を並べた部屋、何度か緊急病院へ救急車で運ばれて事なきを得た長い避難生活にもお別れ。

愛猫のびのびも新しい環境に良く慣れてくれました。還りは新しいバスケットで泣かずに居てくれるかな・・。

新調した移動用のバスケットと温度の下がるクッション

まったく別の環境へタイムスリップしてしてしまった愛猫

私は誰?ここはどこ?状態

リードを着けたまま庭を探索

愛猫らあらに ただいま!

ひとり誰もいない二階の部屋に上がって横になっていたのびのび。あ~楽になれた♪

よかったね(^^)

らあらが居た場所に戻りました。

皆で帰還を祝って乾杯!

スーパーで買ったカツオの刺身が美味かった!

周りに住んでる人は自分たちの他に誰もいないので人家の明かりはない。

街燈の明かりがなかったら真っ暗闇。

自分の部屋で寝れる幸せ。20110311の朝起きて以来。新しい羽毛布団で。
一時帰宅の時に入っても他人の部屋みたいだったのがようやく自分の時空間に居ると感じられるようになりました。

目の前の景色は子供の頃から見ていたいつもの景色。田んぼに稲の穂はないけれど。

福島の青い空と横浜の青い空に違いはない。もう空を仰ぐ度に、この空はあの空へ続いている・・・と思うことはない。

避難中にどんどん増えて行った家財道具がトラックいっぱいに積まれてやって来た。

一つの部屋を占領してしまった荷物。不思議だけどまだ見つからないものがある。どこへ行ったんだろう・・・。

福島の月はどこで見ても同じ月

花の数を増やす庭の百日紅(サルスベリ)

少しずつ自分のお家にしておくれ。

のびのびできる自分の空間にしておくれ。

庭を渡る浜風の景色~整理(8)・・・秋20022013/02/18 21:41

福島県浜通りの庭を渡っていた浜風の景色の整理をしています。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

10年ほど前の景色はデジタルカメラで切り取られている。
便利な世の中になってて良かった。

でも原発の過酷事故で避難していなければ
こんなことをやっていないかもしれない。
やる必要もなかったと思う。

未来が見えず浮き草のようにふわふわ浮いている
自分の心に重りを付けるかのよう。


2002年秋の風景



初代愛猫のびのび



木戸川鮭漁





大好きな井出川の紅葉









広野の大滝の紅葉






原発避難113~東日本大人災2012/10/17 17:55

久々に強い雨が降ってる。
ふと「東日本大人災」という言葉が浮かび、頭の中を渦巻いた。

東日本大震災から1年7ヶ月が過ぎた。
もう多くの人の記憶の中では埋もれつつあるのかな。

今我々は東電の惹き起こした大人災により震災の翌日から警戒区域と呼ばれる場所から家を追われ避難生活を強いられている。福島第一原子力発電所の暴走事故だ。

人間がコントロール不能に陥って、いや重大な危機にコントロールする術を持っていなかったため福島はおろか東日本に広く、甚大な被害をもたらした。自然災害の影響や影響を受けた場合の対応措置のプランがハードもソフトも甘甘で実効性を持っていなかった。重大危機における事故を回避するためのプランがいい加減だった。原発事故はまさに「東日本大人災」だ。

そして過酷な事故が発生してしまったあとの避難プランも甘甘でずさんなものだった。迅速な情報もなく避難は個々の住民任せ。東電、国、自治体、県の連係プレーがなかった。全てが後手後手だ。

今なお原発を稼動させようとしている輩がいる。それは日本の社会を動かす大きな歯車になっている電力会社、大企業や研究機関、国、地方自治体・・・産学官がグルになって福島の事故を無きものにし、、目の前の利益だけに必死にしがみ付いている。被災者や国民の安全などそっちのけだ。情報の隠蔽。事故原因や危機管理の脆弱性の検証に着手しない。

誰にどういう責任があるのか。どういう責めを負うのか・・・正義を名乗る犯人が自供するようなことはしないだろう。原発が3基も爆発、もう一つは自爆の瀬戸際にある。私は人の命よりも原発の命を守ろうとしたことがここまで事故を大きくした原因のかなりのキーポイントであると思っている。でもあのとき現場でどういうやりとりがあったのか肝心な部分は明かさない。卑怯者だ。


東日本大人災以後我々の置かれた状況は一向に変わらない。
地震に襲われ、人によっては津波に家を奪われたあげく・・・放射能の死の灰を浴びせられ人生をずたずたにされた。放置されたペット、動物、作物、植物・・・生死を彷徨い、そして多くが命を失った。

転々と場所を移動しながら過酷な避難生活を繰り返す中失われる大切な命。もう一度自分の家の庭の土を踏める可能性を信じて日々生きているが、悪化する未来予測に目を背けている。未来には見るべきもの、救われるものがないからだ。故郷の除染どころか賠償さえもきちんと進まない。家は震災で壊れたまま、風雨で朽ち崩壊し始めている。田畑には草が身の丈ほどに伸び木が生えてくる始末。許された一時帰宅で我が家を訪ねる人の心も。町は帰還は5年後だとしている。それもできるのかできないのかはっきりしたものではない。高齢者にとっては過酷の時間だ。それよりも肝心の放射線量がどうなっているかだ。

原発事故被害者でありながら他人事のように心が風化していく自分が怖い。
今冷静に自分が置かれている状況を見つめるのを避けたがっている被害者は多いと思う。絶望とあきらめ。希望の光が見えたとしてもほのかな光だ。希望ってなんだろ。


遠くまで連れて来られて強く生きるのびのび。事故後一ヶ月置き去りにされ一人警戒区域の家の中で耐えていた。