原発避難154~一時帰宅2014年12月2014/12/29 10:29


年も押し迫った12月27日に家族で福島の自宅へ一時帰宅してきました。
今年3回目。http://youtu.be/IR11UkYTEtQ(動画)
それぞれの安心のために故郷を見て家を見て先祖や愛猫のお墓参りしてきました。
全国的に冷え込んで雪に見舞われるなか、快晴、穏やか。天気に恵まれました。

富士山と東京スカイツリー

茨城 筑波山

茨城 日立の海

福島入り
いわき 四ツ倉PAで最後の休憩

 いわき市の線量 毎時0.07マイクロシーベルト。今避難している横浜のは0.05くらい。

浜通り中部の双葉郡に入りました。事故のあった東京電力福島第一発電所から20キロ。
隣町の楢葉 除染で取り除かれた大量の土が黒いビニール袋に入れられて田んぼに一時保管されています。

6号国道の右を見ても左を見ても除染土の山です。息を呑む異様な光景。

故郷の町に入りました。東電第一原発から10キロ。
除染された田んぼで復興のための試験的なものが行われています。
奥に見えるのは阿武隈山塊

我が家

輝く太陽と青い空、風もなく小鳥の囀ずる穏やかな故郷でした。...
滞在が許されているのは0900-1500まで。
自宅での滞在時間は1230から1430までの
2時間でした。


愛猫らくらくと初代のびのびに挨拶しました。先祖の墓参りしました。

部屋の中で枯れ死にした観葉植物の鉢を外に出しました。
部屋で床に腰を下ろしてウクレレ弾いて、浜を渡る風を歌いました。自分のための時間。
池にイワナくんの姿はありませんでした。

家の外で皆で昼食をとりました。

我が家の戸外の線量。2011年頃は1.00~1.50くらいでした。まだ除染は行われていません。
自然に線量が下がっているのでしょうか。

家の中は片付いていなく。暖かいので外で昼食。コンビニで買ったおにぎりやお茶で。
ブレーカーを上げれば電気は使えます。

梅の木の蕾が育っていました。

庭の灯篭。いつも天球の城ラピュタのようだ・・と思っています。

垣根の山茶花。

愛猫らくらくが眠っている梅の木。

あの3.11の日にらくらくを弔っていました。手を合わせているときに地面が大きく揺れたのです。
ここも線量は下がっているのですが、周囲よりは高めです。

のびのびの先輩ののびのびの墓がりんごの木の下にあります。同じシャムネコでした。

山の斜面にある墓地。高齢の父母が上がって来るのはきつくなってきました。
ここに来るために避難先で毎日散歩をして頑張っているのです。
避難をしたまま生きて故郷に帰ることが叶わなかった人たちが大勢います。
遠くに見えるのは東京電力福島第二発電所。停止したまま。
一刻も早く廃炉にして欲しいと願い続けています。


 神社にも参拝しました。

我が家の田んぼは除染作業が済んでいました。
庭や畑、家屋の除染は来年本格的に行われる予定になっています。

帰還できる見込みのある住民で、同じ地区で帰還を希望している人は数えるほどかも知れません。

町全体では200人くらいかもです。


 原発事故の前は16000人いました。

あの原発事故で町は瀕死の状態に陥りました。

廃炉の決まらない東京電力福島第二発電所の排気塔が目の前の山の森に聳えていました。
町内の田んぼのあちこちに除染土を詰め込んだ黒いビニール袋が点在していました。
放射能汚染瓦礫の巨大な焼却施設が津波に襲われた海岸地区に建設中でした。


自宅周辺にも除染土のビニールの山が。これが普通の景色になってしまいました。


我が家の田んぼ。
今年の10月の一時帰宅でセイダカアワダチソウや柳、すすきの荒野だった場所が除染されて綺麗になっていました。


敷地内にある畑は荒野のまま。
新しい年に除染が行われる予定です。

野菜を作っていた畑が小鳥たちの棲家になっていました。

イワナを生かしておいた池にはその姿を見ることはありませんでした。
落ち葉で池が埋まっています。

用水路の線量も下がりましたが・・。

藪つばきの蕾が膨らんでいました。つばきは大好きな花です。

原発事故による避難生活が3年10月近く続くなか、家族も私も自分がこの家でこの故郷でどんな生活をしていたのかそれさえも記憶が怪しくなってきています。自分のアイデンティティーが稀薄になっています。...

人間同士の絆もさることながら自宅、自室、庭、田畑、山、川、海、故郷と繋がるものが忘れかけた昔の親友のようなのです。

元気だった?と言う会話が虚ろなのです。


柚子がたわわに実っていました。取る人もいないので鳥たちの貴重な餌になっているでしょう。

震災で雨漏りし腐っていた廊下も大工さんに新しくしてもらいました。

南天が窓の外に実っていました。難を良い方向に転じてほしいです。

居間のこたつの上には掃除用具などが積み重なってここでは休憩できません。

人も来ないのに映るテレビが不自然な感じ。

食器棚に飾られたグラスや人形やだるまが転げまわっています。
ガラス戸があるから落ちて壊れずに済んでいます。

食器が散乱していた台所も新しくなりました。
今住めたら最高だろうに・・。

自分の部屋。
今回は枯れたハイビスカスなどの観葉植物の鉢を外に出しました。
床に腰を下ろして1曲だけウクレレを弾いて歌いました。
5分間。震災後の初めて自分の時間過ごしました。

ガラス戸の中には色んな飾り物やグラスが転がったままです。床にも。
自宅に宿泊できる許可ができないとゆっくり片付けられません。


よく散歩に行っていた海岸と太平洋。
津波に襲われました。この地区には住宅は建てられないことが決まりました。

人が住めなくなったその場所に震災の瓦礫の焼却施設が建設されています。
いつの間にかそんなことになってました。
見るからに巨大です。怪獣のよう。

週に3、4回車で買出しに来ていたショッピングセンター。無人です。

町の中央にある東京電力のビジターセンター。

小学校にも黒いビニール袋が沢山。

田んぼの土を引き剥がしたものが黒いビニール袋に入れられて整然と並べられています。

黒いビニールの山、山、山・・・

311の翌日原発事故による避難指示が出て、今車が走っている道路を通って隣村に町民は西へ脱出しました。
車が数珠繋ぎになりなかなか進まない何時間もの大渋滞でした。
東電第一原発まで4,5キロの距離。原発はこの時点でやばいことを起こしていたのです。
そこまで重大な事態だと知らないのは住民だけでした。2,3日の念のための避難だと思っていたのです。
上空を北に向かって自衛隊の大型ヘリが爆音を出して飛び、道路の逆方向から自衛隊の緊急車両が走って来ました。
普通30分もかららず行けるその場所まで6,7時間。
早朝に家を出て避難所に入ったのは午後2時くらいでした。その日から3年10月近く家に戻れていません。
ひとり残された愛猫のびのびも人間以上に苦しい経験を強いられました。


常磐富岡から高速に上がりました。
除染土の黒いビニール袋が米俵のように積まれています。
これが警戒区域内の普通の光景になってしまいました。


さようなら故郷。
いわき市内の宿に向かいました。
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いわき 遠野の青空
小さな温泉宿のおもてなし
ゆっくりくつろげました
ありがとうございました



月が出ていました。

福島の空は綺麗です。

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お陰さまで一時帰宅も無事完了しました。
撮影したビデオを見ながら反省会をしました。

今回もお疲れ様でした。

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