原発避難124~警戒区域への一時帰宅 避難645日2012/12/16 12:05


昨日12月15日(土)福島の警戒区域にある我が家へ妹夫婦と一時帰宅して来ました。
年に数回帰省していた妹たちも震災後訪れるのは始めて。
警戒区域は震災当時そこに住んでいた住人のみならずここで生まれた人たち、縁があって住んでいた人たち、この地を愛していた人たちにとっても同じ故郷です。
その場所に帰れない、訪ねられないのは無念・・・・そういう思いが最近募ります。


隣町は既に警戒区域が解除され出入りが自由(宿泊は不可)になっていますが、我々の町はまだ警戒区域で許可が無いと立ち入りはできません。町の住居のほとんどが事故を起こした福島第一原発から10キロ圏内で人が住めないほど線量の高い場所が多いためです。

我が家はその10キロから少しはずれた所にあります、が目の前には福島第二原発の排気塔が聳え立っています。爆弾を抱えているようなもんです。いや今は「原発」のほうが爆弾よりも怖いでしょう。
もう原発を枕にして眠りたくはありません。



第一原発から20キロ圏内に入ると神奈川から高くても0.1マイクロシーベルトだった線量計の数値が急に倍にアップしました。今回の一時帰宅のアクセスポイントは第二原発の構内。ドライブスルーでチェックが行われ11:30から15:30まで警戒区域への滞在を許されました。

予報で雨が心配だったのですが、幸い雨は降った後のようで雲の間から薄日が射すような天気でした。

国道6号線を北上し10分ほどで自宅へ。周辺の枯れたセイダカアワダチソウの草原に驚く。既に元警戒区域の隣町からずっと田んぼはセイダカアワダチソウだらけだったのです。

線量計は1マイクロシーベルトへ上昇、落ち葉など溜まっているところでは2マイクロシーベルトになりました。
同じ町の中では比較的低いレベルです。事故のコアの部分に近い町の北部は帰宅困難地域になりそうなほど線量が高いのです。

家に到着して最初に向かったのは愛猫らくらくのところ。庭の梅ノ木の下。昨年3月11日あの大地震があったときに見つかりここに眠りました。






先祖のお墓参りをして・・・・自宅の池へ。大きな山桜の木の根元から清水が湧いています。
川内村のいわなの里で分けてもらったイワナ君は呼びかけると姿を見せ挨拶してくれました。生きていてくれた♪


敷地内に竹が勢力を伸ばし始めました。畑は雑草だらけ。汗を流して作った風呂の薪は野ざらし。ビニールハウスのビニールはセイダカアワダチソウが原因なのか破れていました。


家の周りの田んぼは丈が2~3メートルあるセイダカアワダチソウに侵略されていました。すすき野ではありません。


今年の春の一時帰宅では丈の低い雑草が生えていたのが、こんなにも早くこの北米種の草に占領されてしまいました。信じがたい光景。いのししや熊しか住めないでしょう。


あぜ道には牛糞が。今回の帰宅では牛は一頭も目撃できませんでした。でも新しい糞。


玄関前、建物は雑草に覆いつくされています。家の中も草に侵略されるのでしょうか。


瓦が落ちて来て痛んだ屋根、雨漏りで腐っています。


その玄関の内部は裏板が腐り落ちています。


雨漏り部屋の壁、カビに支配されています。


壁は雨漏りで崩れ落ちています。


新しく入れ替えた畳は腐っています。新しい床板も腐っているようでした。この家はこの先どうなっていくんだろうか。


新しくした廊下の裏板腐ってます。


新しく張り替えた廊下には雨漏りし放題。


震災後1年半過ぎて業者を頼んできちんとした屋根の雨漏り対策が行ってもらえました。


二階建ての屋根のぐしの部分の重たい瓦は地震で下に落ちて瓦を割り二次的な雨漏りの原因を作りました。


最初のときよりもきちんとした業者により措置がなされました。


自分の部屋で持って帰るものを探しました。亡き友との釣行アルバムやCD,DVDや衣類など。ジョージ・ハリスンのCDだけは持って帰りたかったけど探しても見つかりませんでした。持っていたのはレコードだったのかなとか・・・
落ちそうなCDを片付けているとき強い地震がありました。揺れ方が半端じゃない。やばい、トランシーバーで戻るように指令が来るかと思ったほどでした。怖い怖い。
時間の制限下では思ったように探し物や片付けができない。何を見つけたかったのか・・・。

二階から見える太平洋と松並木と集落、あの津波に襲われました。

自宅を後にして津波に襲われた海岸付近に行きました。新しく作ったばかりの護岸が容赦なく破壊されました。この右側200メートルあるかないかで第二原発になります。波は静かでした。


母の実家があるこの海辺の平和な集落が一瞬で津波に呑み込まれました。震災の前も散歩で良く訪れていました。


この里川に架かっていた橋もなくなり冬に訪れていた白鳥や鴨の姿は見ることができませんでした。この付近の家も跡形もなく消えうせてしまいました。家族は大丈夫だったんだろうか、あの良く鳴いていたワンちゃんはどうしたんだろうか。愛嬌のある猫は。


付近の人たちが白鳥に餌をあげてました。津波はこの川を遡り距離的にはこの景色の奥のほうにある我が家の集落付近まで押し寄せたようです。


大切なものが沢山詰まった家が瓦礫の山になっていました。


故郷の駅に続く常磐線の踏切からは福島第二原発が見えます。線路はセイダカアワダチソウに覆われていました。


向こうにに見えるのは駅。太平洋から数百メートルの距離。セイダカアワダチソウのうねりの中。草だらけのこんな光景はいつの時代以来だろうか。


駅舎は津波で流され改札口が残っています。その向こうに見えるのは太平洋、福島沖。
今回この場所に来ていたとき強い地震が起きました。小刻みな強い揺れ、あの311と同じような揺れ。凍りつきました。もう地震、津波はころごり、もましてや人間が作った悪魔の原発はあっちゃいけない!


改札の向こうは駅前商店街。
津波に襲われた自動車がそのままになってました。青森の八戸ナンバーでした。


プラットフォームの下の線路は見えません。この駅から毎日高校に通学したり、たまにいわきへ買い物に行きました。もう常磐線はもっと内陸へ線路を移すのだそうです。


駅構内の線路の上に流された自動車がそのままに。


太平洋の松並木が津波に耐えて数本残ってました。生きて行ってほしい。


駅を見た後スクリーニング会場の第二原発に戻りました。

滞在時間3時間30分。
今回の私の受けた放射線量は8マイクロシーベルトでした。自宅周りの行った場所が原因したのか前回、前々回の2倍の数値になりました。

この町は来年警戒区域の再編が行われ3区分され除染、ライフラインの復旧が行われると聞いています。
そして線量が低い地区に帰還できるのは5年後とか・・・・。


百聞は一見にしかず、行ってみて驚いたこともあるし、さして驚かないこともあったでしょう。

情報優先で驚かなくなっているのです。

本来人間は指に切り傷ひとつ作っただけでも青ざめる騒ぎ立てる動物なのです。

ひとまずこれが震災1年9月、原発避難645日、2012年の区切りとなりました。

ありがとうございました。